中国語の小さな習慣
現代中国語の文型の変化
前の文章は、中国語の抽象概念がどこから来たかを見ていた。
今回は、それらの概念が入った後で中国語の文がどう変化したかを見る。
硬めの中国語の文章では、次のような文型がよく見られる:
1) 概念そのものが主語
時間がすべてを変えた。
運命が彼らを別々の方向へ押しやった。
記憶が彼の性格を形作った。
対比:
日々が過ぎるうちに、彼は少しずつ変わった。
あの出来事が痕跡を残した。
2) 経験そのものが「〜のために」ある
あの経験が、その後の人生の道筋を決めた。
子どものころの孤独が、後の選択に伏線を張った。
対比:
当時は知らなかった。
その後はほとんど思い返さなかった。
3) 抽象概念から「来る」あるいはその中に「いる」
彼の失敗はアイデンティティ危機に由来した。
彼女は長く不安状態にとどまっていた。
対比:
彼は自分がどちら側にいるのか分からなかった。
彼女はよく眠れなかった。
4) 説明が速すぎる
これは現代人に共通する孤独だ。
あの夜、彼は一人で街を歩いた。
対比:
あの夜、彼は一人で街を歩いた。
街灯は明るいのに、誰も話さなかった。
5) 事件を総称語でまとめる
人生が彼に妥協を教えた。
現実が最終的に理想を打ち負かした。
これは中国語特有の習慣で、英語や日本語ではずっと少ないと気づいた。
単に概念が多いだけでなく、何でも説明したがる。AがあるからBがある、と具体的な出来事より便利な概念で片付けることが多く、その概念も曖昧。話をきれいにまとめたがり、未決のままを嫌う。
そう気づいてみると、自分が一番の例だ。書くときは頭の中で繰り返さないと、たいてい上のパターンのどれかに落ちる。
川端康成を読み進めにくいことがあるのも関係しているのかもしれない。美しいとは感じるけれど。中国語の読者が全ての言葉をつなげて何かを代表/説明/意味させたがるなら、川端はその逆をする。つなげなくていい、説明しなくていい、まとめなくていい。
雪が降っている。とても静かに。
美しい——それで十分。
川端なら「十分だ」すら書かないだろう。なぜ誰かが「十分」と言う必要があるのか?
日本文学では、最も自然な表現は出来事そのもの、場面そのもの、感覚そのものをただ描くことが多い。
良し悪しの比較ではなく、中国語にはもう一つの可能性が欠けている、というだけだ。