もっといい生活
大学に入る前、PSの面接ってだいたい「なんで学校に行くの?」って聞かれる。あのとき自分の答えは「もっといい生活のため」だった。でも、じゃあ「もっといい生活」って結局なんなんだろう?当時はまったく答えられなかった。
「いい」の前提には、良し悪しを判断する基準がある。でもその基準って、誰が決めるべきなんだろう?外から与えられるルール?それとも自分の内側の裁定?
実は、読んできた小説を思い返すと、ほとんどこれはあらゆる文学作品が答えようとしている問いだと言っていい気がする。文学はいつだって人の物語を語るもので、語る以上、作者の視点が入り込むし、つまりこの問いに対する答えもそこに含まれる。でもだからといって、この問いが簡単に答えられるわけじゃない。むしろ、満足できる答えを得るのが難しいからこそ、こんなにも多くの試みがある。
まず、「どう生きたらよりよく生きられるか」と「どういう人間になるべきか」は、実は同じコインの裏表だと思う。人は自分の内面を、自分が生きてきた場所、子どもの頃に遊んだゲーム、通った学校、読んだ詩として理解することもできる。同時に、人はこの世界とのあらゆるやり取り、ふと書きつけた言葉、朝家を出たときに出会ったあの人にかけた一言、今日着ている服の色としても成り立っている。
もちろん、どうするかは完全にその人の自由だ。でも、そうだとしたら、良い/悪いの基準なんて完全になくなるのか?というと、どうもそうでもない。
たとえ基準を決める権利を完全に個人に渡したとしても、少なくともその基準は「自分の中で整合していようとする」ものだ。たとえば、友情は誠実さの上に成り立つべきだと信じながら、同時に何事も利己的であるべきだと主張したら、その結果はきっと滑稽になる。
あるいは、選ぶ権利そのものを放棄して、流れに身を任せる人もいる。でも、流れに身を任せることですら、実はある基準から逃れられない。東アジアの環境だと、その基準はたいてい、かつてのcommunal lifeの残像が引き起こす「他人の視線」からの圧力だったりする。
たとえば、今の自分の投資への理解で言えば、この残酷な競技場で一番大事な武器は、お金の外側にある「自分の基準」なんだと思う。そうじゃないと、他の人と同じように儲かったら興奮して、損したら死ぬほど怖がって、長期的には「正しいことをする」ほうが「正しい反応をもらう」よりずっと重要だということを見落としてしまう。
でも文学って、そもそも「完成された状態」を書くことができない。もし書いたら、静的な人類学的観察になるか、行動宣言みたいになるかで、どっちにしても物語にはなりにくい。
結局、整合性って根本的に不可能なのかもしれない。論理体系みたいに動く、完全に統一された人間なんて、それ自体が幻想で、人は状況ごとの行動パターンの総和なのかもしれない。でもだからといって、朝三暮四が正しいわけでもない。
追いかけることの中で、叫ぶことの中で、激流に何度も過去へ押し戻されて疲れ果てるその中で、はじめて文学が生まれる。文学の役割はまさに、現実にあるものが必ずしも全部合理的とは限らないこと、成長したからといって必ず無邪気さを失うわけじゃないこと、成熟したからといって必ず誠実さを失うわけじゃないことを見せてくれるところにある。そうして気づく。自分たちは孤独じゃない。同じように真剣に生きた人がたくさんいて、苦しくても絶望しても、自分が信じるものをずっと守り抜いたからこそ、今日の自分たちがこうして幸運にも読めているんだ、と。