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三島由紀夫政論四記

リシンウ
三島由紀夫政論四記 以下の札記は『国を守るとは何か 三島由紀夫政治論集』より抜粋。 記一
其際、天皇は、自分が恰もファシズムを信奉するが如く思われることが、最も堪え難きところなり、実際余りに立憲的に処置し来りし為めに如斯事態となりたりとも云うべく、戦争の途中に於て今少し陛下は進んで御命令ありたしとの希望を聞かざるには非ざるなり。しかも、努めて立憲的に運用した積りなり。(傍点三島) 私が傍点を附したこの個所はもちろんこの文章の主旨ではなく、陛下が立憲君主として一切逸脱せず振舞われたということが主旨である。しかしこの傍点の個所に、私は天皇御自身が、あらゆる天皇制近代化・西欧化の試みに対する、深い悲劇的な御反省の吐息を洩らされたようにも感じるのである。 日本にとって近代的立憲君主制は真に可能であったのか?……あの西欧派の重臣たちと、若いむこう見ずの青年将校たちと、どちらが究極的に正しかったのか?世俗の西欧化には完全に成功したかに見える日本が、「神聖」の西欧化には、これから先も成功することがあるであろうか?

——『二・二六事件と私』

『天皇本人は自分がファシズムを信奉していると思われることが最も耐え難かった。実際、立憲原則に従って処置してきたからこそこのような事態に至ったとも言えるかもしれない。戦時中、天皇がより積極的に命令を下すことを求める声がなかったわけではないが、彼はできる限り立憲君主として行動しようとした。』 『上の段落は天皇本人の天皇制近代化に対する深い悲劇的な反省を示しているはずだ。日本において近代君主制は本当に可能だったのか?西欧派の重臣と青年将校の間で、究極的にどちらが正しかったのか?表面上世俗の西欧化に成功した日本は、今後「神聖」の西欧化に成功することがあるだろうか?』 ずっと三島に対する気持ちは複雑だった。一方では理解を示したいと思いながら、他方では過激だと感じていた。最近になってようやく少しずつ分かってきたのだが、実は三島は想像以上に冷静だったのだ。 軍隊が国会ではなく天皇にのみ責任を負い、その天皇が法的には立憲主義の原則に従う国において、最大の問題は実は最初からの設計上の欠陥そのものだった。結局、天皇こそが、二発の原子爆弾を受けた後、制度を超えて個人として、一億玉砕にブレーキをかけた人物だった。 戦後はもちろん数人の「狂人」戦犯を裁いて終わりにできるが、実質的には誰を責めればいいのか分からない。そして戦争での死は、勇敢であれ蟻のようであれ、すべて無意味に見えた。 三島が『憂国』を書いた時、「彼らは死を前にしてこれほど平静だったから軍国主義は正当だ」と考えていたのではなく、むしろ「彼らがこれほどの犠牲を払ったのに、生きている者たちよ、どうして選択的に記憶を失い、失敗の原因に答えないでいられるのか」と考えていたのではないかとますます思うようになった。まるですべてが:来た、負けた、去った、というだけのように。 記二
今や後進諸国において、フランス革命以来老朽してすたりものになっていた諸理念がふたたび生色を蘇らすのを、生活の中に融け込んで忘れられていた諸理念がふたたび理想としてかかげられるのを、西欧人たちは見ている。彼らの絶望が、新興民族の希望となるかもしれないのだ。植民地時代にはただ主人であるにすぎなかった西欧人は、先達であり教師でさえあるようになった。アジアにおける西欧的理念の最初の忠実な門弟は日本であった。しかし日本は近代史をあまりに足早に軽率に通りすぎ、まがいもののファシズムをさえ通りすぎて、今や西欧的絶望の仲間入りをして、アメリカを蔑んだりしているのである。

——『亀は兎に追いつくか?ーーいわゆる後進国の諸問題』

『フランス革命以来の種々、西欧ではすでに老朽化したものが、新しい国で蘇る(太陽の下に新しいものなし。よく考えてみれば、自分の感覚が歴史上初めてだと本当に確信できるのか?)しかし日本は急ぎすぎた、ファシズムを一気に通過して、西欧と同じ絶望に至り、アメリカ人を蔑むようになった…』 以上は三島のいい加減な翻訳だが、太陽の下に新しいものなしと言えば、最近最大の「新しいもの」である技術楽観主義は、実は1920年代にほぼ同じものがあった。帝国は崩壊し、イデオロギーは互いに矛盾しうるが、技術は中立的で人々を勝利に導けるように見える、だから技術万歳。(第一次大戦の死者数がそれ以前より一桁多かった理由を忘れた人がいるのではないか。) サンノゼの街角で誰かを捕まえて、今の生活で一番の悩みは何かと聞いてみれば、99%はAIだけでは解決できない問題だと思う。しかし問題は実はAIではなく、技術がすべての悩みを解決できると皆に約束する人なのだ。 記三
たとえば資本の蓄積については、インドネシアと中国とは、まるで対照的な事情にあった。インドネシアには、民族資本というべきものは殆ど皆無であった。これはいうまでもなく、オランダの政策であるが、しかしそのことが、独立闘争に際して結束を固める結果になり、民族ブルジョアジーの裏切を生ぜしめなかったのである。中国では早くから中小規模の近代企業という形をとった民族資本が発達していた。しかしこの資本は、国民経済の本源的蓄積とはならず、無政府的資本ともいうべきものであった。革命はこれを徹底的に利用し、事実、中国革命における民族資本は特徴的な役割を果すことになった。革命第一期において、民族ブゥルジョアジーは反帝闘争に参加し、いわゆる新民主主義革命の時代において、民族資本はむしろ積極的に保護育成されつつ、国家資本主義の方向へむかって改造され、今日の社会主義経済下でも、なお一定の役割を担っている。これが中共の資本蓄積の基礎になったのである。さらに外国資本に結びついた大ブゥルジョアジーの資本と、外国資本は没収され、ソ聯邦の援助がこれに加わった。 さて、後進国の資本の原初蓄積は、最も困難な問題の一つである。近代日本における資本の本源的蓄積の過程は、後進国の苦しまぎれの表現であって、すこぶる特殊なものであった。よく言われるように、日本のそれは、上からの資本主義化であり、民主的な自由競争による資本蓄積は行われなかった。その構成も国家資本が優位を占め、英国の産業革命のような軽工業・平和産業から近代化が着手されたという過程は辿られず、造兵工業・軍事工業がまず近代化され、日本の資本主義そのものが、軍国主義的性格を帯びる端緒をなしたのである。 それと同時に、おそかれ早かれ、近代化を達成した後進諸国に生ずる知識人の幻滅に対しては、われわれは十分その治療法を準備して、彼らの医師とならなければならない。幻滅に対して、もっと強い幻滅が、効力のある薬餌になる場合もあろう。まずわれわれが、われわれ自身の幻滅に直面して、それを怖れない勇気を、わがものとしなければならないのだ。

——『亀は兎に追いつくか?ーーいわゆる後進国の諸問題』

『原始資本蓄積の観点から言えば、インドネシアはオランダの植民地政策により民族資本を発展させられなかったのに比べ、中国の民族資本は存在したが国民経済の本源的蓄積とはならず、無政府的資本として存在し、これが中国革命の成功に貢献し、後に中共の国家資本に吸収された……日本は上からの資本主義化であり、産業革命を経た自由競争の資本を欠き、源流から軍国主義的性格を帯びていた。』 『先発国としての我々の任務は、我々の急進的な近代化の過程で現れた危険な歪曲が後発国で繰り返されないよう忠告することだ。遅かれ早かれ後発国で近代化後に生まれる知識階層の幻滅に対して、最良の処方箋はより強烈な幻滅だ。そして医者になるには、まず自らの幻滅に直面する勇気を持たなければならない。』 これが後に切腹しに行った三島由紀夫が書いたものとは信じがたい。やはり人を理解するには、違和感が最も強いところから始めるべきだ。 三島は行いが言葉に従い、言葉が人に合っていたと言える。それゆえ彼の書いた文章は少し日本語らしくない。 日本語の議論文は、文体上の習慣として自分と意見との間に距離を置き、責任を追及されて面目を失うことを避けてきた。しかしこの文化は明治以降、無頭の龍となり、無人運転の車が暴走するのを見ながら誰も前に出ない状態へと変化した。しかし主体としての人間は判断を下し、責任を負わなければならない。この点では制度もアルゴリズムも助けにならない。 最後に切腹しに突き進んだのは、おそらく半生を書くことに費やした人が、言葉そのものを信じられなくなったからだろう。 記四 『二〇三高地』は日露戦争についての映画で、物語は小学校教師の主人公が出征前に黒板に「美しい日本 美しいロシア」と書くところから始まる。 日露戦争は私たちの歴史教科書ではそれほど存在感がないが、日本人(あるいは歴史を読む日本人)にとって、日露戦争の意義とそれが呼び起こす複雑な感情は、単なる一つの戦争をはるかに超えている。 それは明治建国神話の完成を象徴するだけでなく、真珠湾以前の、資源不足で長期戦は必敗、だから速決が必要、勝つ自信がなくても大博打を打つという島国の戦略思想の原型でもあった。 それは満州を日本庶民の間で、若者が熱血を注ぐ大陸という想像で彩った。夏目漱石の『草枕』は、人々を満州へ運ぶ汽車の濛々たる煙の中で終わる。そして日露戦争の戦勝権益を守るために存在し、南満州鉄道を守る関東軍が国会を迂回して起こした満州事変(九一八)は、歴史の方向を直接決定した。 映画のタイトルにある『二〇三高地』は、現在は爾霊山と呼ばれている。旅順港を見下ろせる丘だ。日露戦争開戦時、日本海軍の統帥・東郷平八郎は旅順に駐留するロシア艦隊を港内に追い込んだ。帝政ロシアはさらに強力なバルチック艦隊を喜望峰回りで増援に送った。開戦時の戦力差は巨大で、ロシアは工業生産高でも兵力でも日本の数倍だった。東郷にとって、前後から攻撃されることは壊滅を意味し、すべての希望はこの二〇三高地を占領し、高所から旅順港内のロシア軍艦を砲撃することにあった。そしてすべての圧力は、この小さな戦場の指揮官・乃木希典にかかっていた。 乃木は旧式日本軍人の代表であり、強く誇り高いが、柔軟な思考と余地に欠けていた。ロシア人は二〇三の重要性を熟知し、鉄壁の工事を築いて待ち構えていた。しかし乃木は旧式戦争の考え方に従い(同時に既定の計画を実行し)、三度の死の突撃を組織した—一万の兵士が死傷しても奪取できず、二人の息子も全員戦死した。乃木は深い自己懐疑に陥り、指揮を交代して自ら兵を率いて最前線で最後の突撃をしたいとさえ思った。最終的に、児玉源太郎(下関条約後に植民地統治・建設を推進した台湾総督)の観察の下、戦略を修正し—突撃と同時に砲撃を加え(当初は味方を誤射すると考えられていた)—成功を収めた。 勝利後、日本国内では、骨壺を抱える兵士の家族を除いて、庶民は歓喜に沸いた。しかし伝えられるところでは、天皇に拝謁した乃木は、「天皇陛下の精鋭を率いながら、半年もかかってようやく陥落させた、顔向けできない」という一節を読み上げる時、読み続けられず泣き崩れたという。まもなく明治天皇が崩御し、乃木と夫人は殉死した(夏目漱石『こころ』の先生も乃木大将の殉死を聞いて自殺を選んだ)。この時の乃木は、勝利したが頑固さゆえに大量の兵士を死なせた将軍なのか?すべての息子を失った父親なのか?極めて過酷な立場に置かれて重荷を背負った人なのか?映画は答えを出さない—ロシア文学を通じて主人公と知り合った婚約者が、主人公の遺影の前で黒板に再び「美しい日本 美しいロシア」と書き始めるが、途中で書き続けられなくなるように。